究極ウンチ地獄絵図

逃げ場なし

5000文字あるけど、書いたのは俺のせいじゃないんだよ。

 幾野、という名前にピンときたのなら殺していた。

 

 君がそうでないことを祈る。俺にとってはこの名前は十字架なんだ、あんまり理解はされないが。

 

 寂れた神社の石畳で突っ立って、鼻くそを捏ねるような所作をしているの俺に近づいてくる小さな影。


「幾野ってあれでしょ。凄い早いヤツ」

 

 俺の眼前に立った生意気そうなガキは開口一番そう言った。喧しい蝉の鳴き声の中、その甲高い声はかき消されることなく俺の耳に届いた。


 右ポケットに入っていたタオルを拳に巻きつける。

 

 人を生理用ナプキンみたく血まみれにするのはこれで2度目になりそうだ。

「おいガキ」

 

「おっさんが着てる体操服の名前、あの綺麗な眼鏡の人と同じだと思うんだけど」

 

 ガキが俺に指をさす。

 

 左胸についた自身の名前の刺繍を見て思わず舌打ちをした。

 

 拳を解き、焦げたツツジとチョークを捏ね上げたお手製の噛みたばこを奥歯に放り込んだ。


「30円やるからとっとと消えろ」

 

「いらないよ。ボク、ラジオ体操しに来たんだし」

 

 俺の前を通過して境内へと侵入したガキは、一直線に賽銭箱の上に置かれたモンベルのラジオへと興味を注いだ。


「これ、おっさんの?」


 ガキはラジオのつまみを捻る。

 

 だがスピーカーからは耳障りなノイズと、それに紛れた誰かの声が流れてきていた。


「おい!触んなよガキ」


 そういうとそのションベン臭いガキはぷりぷりと言わんばかりに頬ふくらましながら振り返った。

 

「さっきからガキガキってさぁ。ボクには不離羽って名前があるんだけど?」


「不離羽?またゴキゲンな名前だな。そんなら苗字はワールドってか」

 

「え!? なんでわかったの? ボク、悪戸っていう名前。悪戸不離羽っていうんだ」


 世も末だ。早く終わってしまった方がいい。

 

 そんな諦念が俺に不離羽と名乗ったガキを追い出すのことをピタリと止めさせた。憂さ晴らしの如く、指を口に突っ込み噛みたばこを引き抜きそのまま狛犬の額に擦り付ける。


「そのラジオは俺がお前位の頃に、おね……姉貴が入院してる俺にくれたものだ。姉貴の愛用の逸品だ」

 

 つらつらと話す俺に不離羽は対して興味を示さない。

 

 その態度に腹立ちはしたが、一方で自身が多弁になっていたことを客観視させることにも繋がり、恥ずかしさが勝った。

 

 不離羽はラジオをまじまじと眺めた後、そのアンテナ部分を指の腹で優しく撫でた。

 

 この所作が、俺がこの小さな存在をガキから悪戸不離羽という人間へと認識を変えたように思う。

 

 それは持ち主の俺の目から見ても小汚いこのラジオが大切な思い出の品だと知る前と後では接し方が全く違った。

 

 こいつは決して無教養なクソではないことは明白。


 不離羽の恰好はとてもシンプルだった。白のTシャツと、下は動きやすそうなハーフパンツと瞬足という出で立ち。

 

 首からは「デイリー」と書かれたスタンプカードをぶら下げていて、不離羽が身につけているのはそれらだけ。

 

 しかしその姿には「何もない」ことよりも「空白」を感じさせた。これから沢山詰め込んで行ける、それ故のシンプルさを人にした様だった。

 

 汗に濡れた髪と日に焼けた健康的な肌が俺には少し眩し過ぎる。

 

「おら、ラジオ体操始めるぞ。それやってとっとと帰れ」

 

 7時50分。俺はラジオ体操の曲ががなり立てるラジオと共に不離羽とラジオ体操を始めた。

 

 不離羽はそれはそれは真剣だった。

 

 特に「腕を大きく左右に動かしパワーフリップの体操」は圧巻だった。

 

 出会いとは打って変わって体操はスムーズに終わり、不離羽がスタンプカードを前に出してきた。
「おっさん、スタンプ」

 

「ああこれだな」

 

「んげあ。これ印鑑でしょ?つまんない」

 

「シャチハタだ。退職の時に使ったんだよ。思い出の品だ」

 

 そう、退職の時に。

 

 あれ、待て。俺はあの「眼鏡外した方が可愛い」つったカスの部下に殴りかかって、それで。

 


 それで?

 


 去来する違和感。そして辻褄の合わない現状。

 

 右手に握るタオルのごわつきがやけに存在を主張し始める。 
「おっさん? どうしたのぼうっとして」


「ん。いやなんでもない。お前は明日も来るのか」


 不離羽はさも当然という顔をした。

 

 そこには小馬鹿にするような意味合いの視線も含まれているように感じ、先ほど感じた嫌な予感のようなものももあいまって気分を害した俺は不離羽をとっとと追いやった。


 結局のところ、不離羽とのこの奇妙なラジオ体操の関係は1日とて途切れることなく続くことなる。

 

 「リステリンを長時間口に含むと白いネバネバができるんだが、あれは美味いぞ」と俺が言うと「キショ」と反応し、不離羽が「蝉のお腹に注射針でおしっこ入れたらお風呂の中みたいな音がする」と言えば「終わってる」と俺が答えた。

 

 「マンチカンって全方位にエロい」と俺が言うと「カス過ぎる」と不離羽がため息を零し、俺が「死ね」とキレたのは不離羽が「ASMRでパイズリしながら左右で囁くの、夢見すぎ」とほざいたからだ。


 そんなちぐはぐな会話と、角度も朱肉の押し具合もてんでバラバラなスタンプカードが列をなし、気づけば残すマス目はあと一つとなっていた。

 

 ただ「ラジオ体操」という行為だけが俺と不離羽の二人を繋ぐ唯一の要素であり、これが機能しなくなったら俺たちは会うことはなくなるのだろう。

 

 そしてそれが意味することを不離羽は知らない。今日はそれを伝えねばならなかった。


ニートのおっさん。今日は静かだね」


 ラジオ体操を終えた不離羽が俺に問う。俺はぶっきらぼうに答える。


「今日は仕事がある日だからだ」


「そんなわけないでしょ。ニートなんだから」


 不離羽は俺の話には興味がないという様にラジオの電源を入れた。そこから流れ出すのは不離羽にとって意味のないノイズだった。

 

 しかし俺は今日、そのノイズにこそ用がある。


「不離羽。お前、身に覚えのないものを持ってるだろ」


 不離羽の喧しい動きがぴたりとやむ。その言葉には身に覚えがあるらしかった。しかし不離羽は押し黙ったままだ。

 

 ならば、続けるしかなかった。俺が。


「俺の場合、これのタオルがそれだ。なんでか血で真っ赤。お前のちんちんの先っちょみてえに健康なピンク色だ。そして俺が『ここに来る前にやったこと』は人を殴ったことだ。『眼鏡がなければ可愛い』とかほざいたクソの部下がいてな」


 不離羽はバツが悪そうにそっぽを向いている。

 

 蝉は飽きもせずに鳴き続けるが、それが妙に遠いところで鳴っているような気がして現実味がなかった。

 

 そして不離羽の顔はいつもの無邪気な年端もいかぬ顔ではなく、もっと生々しく痛々しい表情を浮かべていた。


「おっさんはけんかなんかしないでしょ」


 不離羽は小さな声でそれだけ言うと、境内から飛び出そうとした。俺はとっさにラジオのつまみを回す。

 

 不離羽の動きが止まる。

 

「正解だ。このタオルは俺のじゃない。この『血』が俺のだったんだ。そこで思い出したよ。クソ部下は俺の口にタオルを突っ込んで背負い投げをした後に首を思いっきり踏み抜いた。俺はつぶれた喉から血を噴き出して窒息した。それで……」


 そこからの記憶は朧げだ。ただ、思い出した。血反吐を吐いて仰向けで倒れているであろう俺と、そしてそれを見下ろす満足したクソの顔を。


 息を吸い込み。言葉に臭い息を込める。


「死んだ。俺は死んでここに来た。ここはあの世か、もしくはそれの一歩手前の場所だ」


 不離羽が振り返る。そして俺は黙ってその距離を詰めた。石畳がカツカツと鳴る。


 不離羽はポケットに右手を突っ込んでいた。

 

 その腕をつかむ。

 

 恐ろしいほど細く、あの日の俺の首のよりも簡単に折れてしまいそうだと思った。不離羽の腕を引き上げる。

 

 手に握られていたのはビー玉のような黄色く輝く石だ。

 

 俺が「これがお前の?」と尋ねるとただこくりとうなずき「鍛治玉」と答えた。鍛治玉、聞いたことがない。しかしこれが不離羽を死に深くかかわっている、ということなのだろう。

 

 俺はラジオ体操のカードと鍛治玉を不離羽から取り上げると、それを神社の賽銭箱の上に置いた。そしてラジオに手をかける。


「おっさん……なにやってるの?」


「ここから先は推測だ。だから、祈ってるんだ」


「神様なんているわけないじゃん。ボクたちが死んだんなら猶更だよ?」


「お前とはずっと意見が合わないな。神はいるぞ。俺の姉ちゃんはそれに救われた」

 

 ラジオのつまみを触る。75.5MHzと38.2MHz。そして最後に16.3MHz。

 

 最初はノイズだけだったのが、徐々になにかに近づきつつあると分かる。

 

 次第に耳鳴りのように響くノイズの音が一つになる頃にその音の正体を知ることができた。

 


 と、くん。おと、ん。お、とう、とくん。おとう、とくん!


 私の神もここにいた。

 

 

 このラジオ体操は死にゆくものへの準備の一環だとしたら、どうか。

 

 

 

 まず俺が着ている服は、幾野姉ちゃんの体操服だ。

 

 そしてラジオも元を正せば幾野姉ちゃんの物。

 

 噛みたばこは神社の生け垣に咲いているとチョークを砕いて作った。

 

 原料のチョークは姉ちゃんが学友の多忙を家に連れてきてテスト勉強をする時に使っていたものだ。


 そう。タオル以外は全てが幾野姉ちゃんに帰結する。

 

 俺は幾野姉ちゃんとの繋がりを死んでからも感じられていた。


 それに対して不離羽はどうだ。シンプル過ぎる服装。スタンプカード以外手には何もなく、幼い子供なのに常に一人。そこからは何かの繋がりは見いだせない。

 

 この違いが、現状を打破する方法を確信させた。


 蜘蛛の糸を手繰るのならば不離羽よりも俺に分があった。


 そして、それが見事に的中した。

 

 朝7時48分。

 

 ラジオ体操が始まりが迫る。

 

 ノイズに幾野姉ちゃんの声が遮られる。

 

 時間がないことを意味している。


「不離羽はまだ生きていたいか?」


「わからないよ。今だって、生きてるのと変わらないし」


「聞き方が悪かったな。『ボーは恐れている』で睾丸がでるらしいけど、観たいか?」


「うん」


「はっ、クソッタレが。大事なところでは意見が合いやがる」


 俺は不離羽の小さな胸にラジオを押しつけて体操服を脱ぎはじめる。

 

 生まれたての姿になっていく私を見ながら、状況についていけない不離羽が目を白黒させていた。


 俺は、不離羽に体操服を投げながら「着ろ」と怒鳴り、背中を叩いた。

 

 もう時間がなかった。

 

 叩いた背中は子供らしく薄く細いが、それでもまだ生きたいという生への渇望で満ちているように思えた。

 

 不離羽が慌てて服を脱ぎ、体操服を着た。


「ラジオから声が聞こえるな」


「う、うん。女の人の綺麗な声」


「よし、その声がより鮮明で大きく聞こえる場所を探せ。そこがゴールだ」


 全裸になった俺は不離羽に最後の言葉を送ると、背を向けてラジオ体操の準備を始める。


「どうするの」

 

 俺はもう振り返らなかった。


「どうするか? どうするか教えてやる。全裸でラジオ体操を踊る。中年の男が汗だくで、全力でだ。そしてお前から貰ったスタンプカードの最後の枠に自分でシャチハタ押して、今度こそゴールインだ」


「そうじゃなくて! なんで一緒に行かないんだよ!」


 不離羽は喚く。


「なんだそれか。俺にはもうな。その綺麗な女の声は聞こえない。今聞こえてるのはな二つだけだ。煩い蝉とアホみたいな砂嵐の音。だから──」


 ため息をついた。昔のことを思い出す。


 姉ちゃんは都会の学校に行き、多くの友人に囲まれて青春を謳歌した。

 

 そこで出会った信頼できる大人と二人三脚で走り、そして──。


 テレビで見る姉ちゃんはいつも輝いていた。

 

 そしてその度遠くになっていった。

 

 その距離と反比例するように、俺の周りは姉ちゃんの話題でいっぱいになり、そして対して耐えられないほど希薄していく俺の存在。

 

 そうやって、麗しい姉の日々に、俺は育むべきでない情けない劣等感を育んでしまった。


 そして今に至った。

 

 

 だから。


「今から幾野弟はお前で、俺が悪戸不離羽だ」


 こいつなら俺よりも上手くやるだろう。

 

 ちょっと生意気だが、それぐらいの方が多忙さんとも相性がいいだろうし。

 

 何より幾野姉ちゃんも管理のし甲斐があるだろう。


 二人の間に沈黙が走る。しかしそれも長くはなかった。


「ボク、いくよ。じゃあね、おっさん。ありがと」


 走り去る音が聞こえる。賢く、潔い子だ。左手をするりと上げ、小さな背中に祝福を送る。


「姉ちゃんによろしく、弟ボク君」


 ラジオ体操が始まる。


 腕を思いっきり上げる。

 

 腋毛が全開だ。

 

 部位が動くたび蓄えた贅肉が震え、汗が滴る。

 

 足を広げれば金玉が揺れて尻毛がまろび出る。

 

 あらやだ、こんなだらしない姿。姉ちゃんが見たらなんて言うだろうな。

 

 腹にあった太い毛穴から生え出た二本の毛がはらりと落ちる。

 

 あーっ。大切に育ててたのにな。

 

 あーっ。運動してるとおなかが痛くなる。ぶっ!

 

 あーっ。おならかと思ったら下痢が出た。尻毛からぽたぬとりと便が垂れている。

 

 便につられて尿も出る。黄色と茶色のデュエット。糞尿がぶつかって世界三大漁業だ! 

 

 うおーっ。トゥナ!カッツォ! イワシ


 あぁ弟ボク君。こんな大人にはなるなよ。

 

 消えゆく意識の中、俺の胸に去来するのは恐怖でも後悔でもなく、ただ幾野姉ちゃんの走る行く末への祝詞
 
 偉大な鉄の女に栄えあれ。願わくば彼女に別衣装とかあらんことを。