屋外排泄をしたことがあるだろうか。
私はある。
立ちションに至っては小学生の頃至る所でしていたしうんちも何度かある。
公園の茂み、歩道の茂み、秘密基地と命名した茂み。
アパートの階段裏、川、海、プール、路地裏の窓、新聞の隅。
そして風呂もその例に漏れなかった。
見方を変えれば漏らしているとも言える。
我慢に耐えかねてするのではなく、一種楽しみとして立ちションをしていた気がする。
立ちションをするためにションベンを我慢していたことさえあったと思う。
浴槽でもしていた。
今考えると凄い、家族が使う浴槽に排尿行為。
自分が使うだけなら構わない行為だけど家族が使う浴槽で排尿をしてるのが罪深い。
家族が全身に小便を塗りたくっているところをシバリングしながら何食わぬ顔で見ていたこと、今となっては信じられない。
小便でシャンプー泡立てて体洗っているのなんて、汚してるのか綺麗にしてるのか分からない。
そしてそのションベン風呂に自分も浸かってる私。これも意味が分からない。
私は基本体を洗ってから湯船に浸かるタイプなのでションベン浴即退室するわけだ。
ションベンにまみれて一室から出てくる少年を見て誰が「風呂上り」を連想するのだろうか。
奇妙すぎる少年。ジョジョ(排尿音)
まあそんな屋外排泄にはまったことがあった。まあ、時効だろう。
ここにこうやって書きさえしなければ誰も私をションベン野郎と後ろ指をさすことは、まあなかったかと思う。
書いちゃったからには、もう、ね……。
「公園でおしっこするのやめて」
私の屋外排泄は、こういった旨の注意書きがアパートの掲示板に掲示されたことを機にぴたりと止んだ。浴槽でもしなくなった。
近隣住民が「この中にクソションベン野郎がいる」と金田一耕助ばりに目を光らせている。そう思うと震えあがった。
気持ちよく小便をすることよりも、周囲からかかる嫌疑への恐怖が勝ったと言える。
自分が「嬉しい」よりも「恐ろしい」が勝る質でありそしてその従たる質であるのは、こういう経験からも自覚がある。
というのも、この排尿バレは今でも夢に出てくるぐらいにはトラウマな出来事で先日も夢に見たぐらい。他にもこれに類する体験が時々フラッシュバックする。
自分の言動が非道徳的でモラルに反しているそれをうっすらと理解しながらも、改めて糾弾される。その危機感や不安。
そんな不安や危機感が蔓延る世の中で「好き」や「嬉しい」、「楽しい」という方向への言動や表現を続けるモノ・ノフがいる。
そういった人たちも私と同じように危機感や不安の恐ろしさを知りながらも、「好き」に向かって行っている。その姿は人の美徳の一つだと思うし、本当に頭が下がる。
「恐ろしさ」に雁字搦めになっている自分を恥じてきたが、こういう現状にいる自分だからこそそういった美徳をより一層強く受け止められていると、最近少し前向きに捉えられるようになった。
こう思わせてくれたのはひとえに、恐らく今ここまで読んでくださっている「好き」へと向かうあなたのお陰だ。
ありがとう。
先日、休日を明日に控えた風呂の中で、小便ができるかなと試してみた。
結論から言うと、小便は出なかった。
尿管から、バブルジェットの如く噴出される黄金水を期待していきんでみたものの、膀胱がジリリと痛み陰嚢の裏側がプルプルと痙攣するのが関の山だった。
いつかまた、一人でロングショベを。