究極ウンチ地獄絵図

逃げ場なし

主人公の名前と余白

RPGにおける主人公は、プレイヤーがゲームに入り込むための『余白』ではないかと思った。

 

ことの発端はずっと前になる。

ゼルダの伝説ブレスオブザワイルド』、本作は主人公の勇者がリンクの名前を冠して登場した。

勇者の名前を僕たちプレイヤー自身で命名できるのがゼルダの伝説の一つお約束だと勝手に思っていたので、最初にゼルダ姫らしき少女の声で「リンク…リンク…」と連呼され驚いたことを覚えている。

この時点で僕(プレイヤー)はリンク(主人公)から弾き飛ばされたのだ。

 

いざプレイが始まると、いつも通りリンクは寡黙だった。

いつも通りの勇者然とした態度だった。

あれ、これならいつも通り名前変更できてもよかったんじゃないか?

まあムービーにはボイスしっかりついてるし、名前呼ばないのも不自然ってことなのだろうか…

『ヘイ!』『リッスン!』『ヘェイ(深く渋い声)』

とかじゃ駄目だったんだろうか。

ナビィやチャットにいたいけな恋心を抱いていた僕はあんな一言のボイスにさえときめいていたのに。

リンクという中継を通して僕ことプレイヤーに投げかけてくる姫様の声は遠くに感じていましたとさ。

 

名前を付けられることがウェイトの重いシステムだとは微塵も思わないけれど、ストーリーや人物像、ボイス等のビジュアル周りがちゃんとしてくると主人公(被操作ユニット)=プレイヤーの図式は難しくなるのではと、RPGをしていて密かに感じていたところ。

 

どこか俯瞰的で鑑賞的、主人公に不干渉な目線でゲームをしていることが最近は多い。

これが良いとか悪いとか、だから面白くないというわけではなく、単純にそういうものとして区別している。

「チャリー」や「カルマ」、「ゴンザレス」に「カタクリコ」、最近では「リクハチマ」と「きん」など、僕が手癖で名前をつけた主人公が歩いた世界は、思った以上に記憶に残っている。

名前を決めるというのは、

これから僕たちが主人公になる儀式であり、確かに愛着の湧く仕組みだったのだ。

口数は少なくともそれだけで主人公を愛でる気持ちは湧く。

 

と、ここまで僕(プレイヤー)と主人公との間にある距離感を散漫に綴ってきたんだけど、それと同時に僕(プレイヤー)の存在は極端にいうとゲームに無視される存在なんだと気が付く。

 

例えば僕がツボ割ったりニワトリ斬りつけた挙句逆襲され逃げ惑う操作が、ストーリーの中で評価されることはない。フェニックスの尾で一撃狙ったり、ポーション中毒で戦闘を行ったり、ドルミンで寝かしつけた敵をぼこぼこにするような悪辣鬼畜戦法がストーリー上の主人公らしさを作るわけではない。

主人公はCPUと話すことでそのキャラクター性が見えるし、勝つことで物語を進めていく。

RPGは僕(操作)なしでは進まない割には僕(操作)はそこまで評価しない
ということである

「急げって言われてんのにレベル上げ」「村人の家に押し入りツボ割り」「村人全員に話しかけてるよそ者」「ガラス繊維と感覚体を買収しては売りつけてくる」とかやっててもストーリーとしては一向にかまわないのだ。(こういう操作をストーリーに入れる仕組みはメタと呼ばれがち)

くどいがこれは、ダメだとか面白くないとかではない。単に「そうなんだよな、無視さえれてるよな僕は」という謎の気づきがあったからだらだらと記事にしてみました。

被操作ユニットに反映されないからこそ、ゲームだからこそできる言動でもあるわけだから操作の自由度は広げていってもらいたいところ。

 

主人公に降り立ちRPGを進めていく僕たち。ボイス、美麗ビジュアル、濃厚な人物像等々がぎっちぎちにつまってしまった主人公に僕たちはこれからも入れる余白はあるのか!?

 これからもゲームをしていきたいと思います。